「ハムレットにみる聖性~キリスト教とシェイクスピア」
ヨーロッパの中世・ルネサンス音楽からハムレットにみるシェイクスピア作品に聖性の様な、キリスト教の影響はどれ位あるだろうか、或いはないのだろうか。それにはある程度キリスト教とはどういうものかを学ぶ必要があると思う。その前提があってこそ、その中の聖性に気付ける、見い出せると考える。その事によってヨーロッパ文化のより深い理解に繋げる事が出来るのではないか。
キリスト教には愛・神秘・言葉・歴史・悪・聖性などのキーワードがある※1。それらは凡そ自己愛という基盤、神という神秘、聖書という言葉、旧約から新約における聖書の歴史、善の欠如である悪、聖なる美(聖性)という内容のものである※1。神とは滅多にいない人。唯一の神が天地を創造、苦学や苦労、苦難を命を投げ出しても救う。まず「光あれ」、人はサタンの誘いで善悪を知る林檎を食べた事から生じた。人は何故に産まれ苦しみ死ぬのか、運命は自分が握っているのかを問う宗教である※2。
悪とは善の欠如である※1。神が創造したものは全て善いもの、悪はより良い善を選ばずして生じる※1。罪と悪との違いはキリスト教では微妙である※1。ハムレット冒頭では、亡き父の復讐を誓う場面では、神の摂理に反する様な決意をしてしまう。冒頭で悲劇であることのメッセージをシェイクスピアは意図し覚悟しているのではないか。オフィーリアの死の場面では主人公のハムレットの性格が、恋人の運命をも悲劇に結びつけたのか。恋人である女性には、愛とか美を託されているのではないか。復讐は忠臣蔵の例も悲劇であるように、美しくもないし、善とも言えず、人間愛に反するが、必ずしも全てが善でない美しくない愛がないとは言えない。オフィーリアは命を投げ出してしまうが。最後の闘いでは、ハムレットも亡くなってしまう。イエスは「重荷を背負うために来た」※1.苦難を受け入れて、命を投げ出したことは、ある意味、主人公が責任を取った筋書きとも言える。結末としては悲劇的、謎を謎のまま不快として残す。人には無限なものに対する憧れがある。神が人と結びつき、限りない欲望を満たしてくれる※1。ここは聖性のある部分だと思う。ハムレットは神なのか人間なのか、ハムレットには神が託されていると考えると、ハムレットは、物語に入り込んで一体化している読者に代わって、罪を償ってくれる。これらの理由から、人を惹きつけて止まない作品なのだと分析してみる。シェイクスピアが、何処までキリスト教から自由であり、何処まで意識していたかは定かには分からないが。
シェイクスピア作品は、ヨーロッパ演劇や文学に大きな影響を与えたが、キリスト教的な構造をしていると仮定してみた。「ハムレット」における聖性は復讐により悲劇となり、苦難を背負い命を投げ出した死によって聖性を持たせたと分析した。キリスト教的な道徳観に基づいているのだと解釈してみた。キリスト教的な深さが、人を惹きつけ、映画にリメイクされたり、演劇で繰り返し再演されたり、後世の私たちの生活や文化にも大きな影響を与え続けていると仮定して考察してみた。
※1:「キリスト教講義」文藝春秋、※2:「神々の世界から市民社会の幕開けまで」藝術学舎
https://www.lucanust-angle.netにて掲載。